義父の遺体が見つかりました。
主人は、その報告を受けてすぐ、娘に義父(じっち)が亡くなったことを話しました。
「じっちは、死んでしまったんだよ」 娘は目を見開き、一瞬言葉を詰まらせましたが、すぐに「じっちは今何処にいるの?」と話しました。 主人はなかなか返答できませんでした。「石巻に居たよ」と答えるだけで精一杯の様子でした。
その後、私は別部屋に娘を呼び、2人きりになりました。
そこできちんと、話しました。 「じっちはね、もう死んでしまってね、もうみんなと会えないんだよ」 …包み隠さず話しました。
「ママね、じっちのこと大好きだったからね、もう会えないの、すごく悲しいの…女の子は涙を我慢できないから、こっちゃん、一緒に泣こうね、じっちが死んじゃって、悲しくて涙が止まらないのは、ウソじゃないよ、だからいつでも悲しくなっていいんだよ」
すると、娘も泣き出しました。 「ママも悲しいんだね、大丈夫、あたしも悲しいよ…」 娘は涙を流しながら、私のことを小さな手腕で抱きしめてくれました。 「じっちは、死んじゃって、どこに行っちゃうの?」
娘の問いかけに、私はこう答えました。 「じっちはね、大工さんで、いっぱい頑張ったからね、いま天国に向かってるよ。遠い遠いお空でね、こっちゃん達にはもう見えない所なの…でもね、天国に行ったらね、じっちは〝不思議な望遠鏡〟を貰えるんだよ。それは、たくさん頑張ったご褒美でね、こっちゃんやママ、パパ、よっちゃんも、みんながね、元気かな?いい子にしてるかな?って、いつでも見れるようになるんだよ」
娘はじーっと私の話に耳を傾けてくれました。そして、 「じっち、凄いね!不思議な望遠鏡、凄いね!」 いつもの笑顔を取り戻しました。 「じっちには、もう会えないんだけど、じっちはたくさんいっぱい頑張ったから、不思議な望遠鏡を貰いに行ったからね、こっちゃん、大丈夫?」 「うん!…もう貰えたのかなぁ」 「今ねパパが、じっちがちゃんと天国に辿り着けるように、お手伝いしてるよ」
娘が本当に、祖父の死を理解したかどうかは、わかりません。 それでも、私なりに、娘には真実を伝えることができたのでは?と実感しました。
こんなに早く、最愛の祖父の死を、娘に伝えなくてはならない日が訪れるとは、思ってもいませんでした。 生後2ヶ月から祖父母宅に預けられた娘。ベビーベットも積み木も、みんなじっちの手作りでした。 …まだ安否がわからず行方不明になっている方も居られるなか、 家族に引き取られることなく、 近日中に土葬される遺体もあるなか、 幸いにも義父については、葬儀屋を仲介し火葬できる運びとなりそうです。
義母のお姉さん、通称、“姉様“は81歳。 私達家族と同じ親戚宅に身を寄せていました。
牡鹿半島、十八成浜(くぐなりはま)にある自宅で被災し 孤立しているところを震災発生から4日目に、親戚が松島から出した釣り船に乗って救出されました。私が、この経緯を知ったのは、震災から2週間過ぎた頃のことでした。横浜から遥々かけつけた弟と再会した瞬間、いっきに、あの日の経験を語り出したのです。私はすぐそばで、姉様の話に耳を傾けました。親戚宅では、いつも誰よりも声高らかに笑い、皆の食事をこしらえていた姉様が、今にも崩れ落ちてしまうのではないかという位、声を震わせ、語り尽くしていました。
…そういえば、義母もそうだったんです。
私達家族には いつも平気な顔をしているのですが、遠方から慰問に来て下さった保健師さんや被災を免れた友人、親戚には、あの出来後や悲しみを一気に語り出すのでした。
被災地では、同じ思いをした同志では語り合えない事をみんなが心の奥底に抑え込んでしまっているように思います。被災前の思い出や日々の暮らし、街並みや窓辺の風景、何もかも全てが 泥波に打ち消せれてしまった事。それらがふと思い浮かんだ瞬間、反射的に「思い出すな」 という力が働くのです。
みんなが辛いのだから 自分ばかり 弱音を吐いてはいられない そんな想いもあります 我慢の精神は 外国文化から賞賛され 誇るべきところではありますが 被災者ではない人との 繋がりのなか 悲しみや不安を分け合い 涙を流して語り合う時間も これからの私達には必要なのだなと感じました。
「水道のお水を流し過ぎたから、津波が来たんだよね、ママ!」
5歳の子が突然、あまりにも的を得たことを言ったものですから、大人たちは呆然としてしまいました。 津波さえ来なければ、もうすぐ幼稚園の年長さん。再来年は我が子に、ランドセルを背負わせて上げる事ができるのか。先々の不安は拭い切れません。
それでも、親達の心配をよそにして子供は強くたくましく成長しているようです。
自宅の二階
近所の会館
避難所
義母の親戚宅
私の実家…
私達は、大人の判断だけで、少しずつ安全で安心な場所に移動をしてきました。
子供達もさぞ不安だったことか、場所を移る度に、「会館にはいつ戻るの?」「中学校に戻りたいよ…」と話していました。それでも子供達は、日頃から“なれこい”性格が功を奏したのか、避難先ではダダをこねるもほんの一時で、すぐに話し相手を見つけていました。子供達の強さに、大人達は救われていました。
私自身にも、子供達の健康と安心の為に最善の場所を求めて移動を決意してきた気持ちとは裏腹に、泥と瓦礫に埋め尽くされてしまった我が家が再び元の姿に戻り、家族の日々を送る事ができるのか、言葉にならない不安が常に重くのしかかっていました。今すぐにでも折れてしまいそうな気持のなか、避難先で出会って来た多くの方々に勇気付けられ、前を向いてきました。
今日は、子供達と一緒に私の実家(仙台)に来ています。ここでしばらく避難生活を送りますが、主人は石巻の避難所に寝泊まりし、そこから仕事に行くことになります。
実家にて、久々に入ったスーパーマーケットでは、何事もなかったかのように生き生きと商品が陳列されていました。私はそれを見た途端、涙が止まらなくなってしまいました。涙の後、私は確かに生きている、生きて帰ってこれたのだと実感しました。
自宅はどうなってしまうのか、私達家族はどこに落ち着くのか。住まいが決まらない、決められないという心境は、自分がここに生きているという実感さえ奪ってしまうように思います。
3月30日は私たち夫婦の7回目の結婚記念日でした。
夫は被災地に単身赴任中ですし、何のお祝いもできませんでしたが、7回目の記念日だけは、私たちにとって忘れることのできない、特別な年になるのだと思います。
私の両親は7回目にして始めて、今日が結婚記念日である事を知りました。
今まではどうしても、記念日である事をを話す事が出来ませんでした。 私達夫婦、実は私の両親に結婚を認めて貰えないまま石巻で入籍をし、新生活をスタートさせました。初孫の産声を聞かせてあげる事もできませんでした。
娘が生まれてから、少しずつ両親との距離を縮め、今に至っています。 結婚しても、親になっても、自分の両親には迷惑や心配を掛け続けていますね。 今回も一体どれたけ心配をさせたことか…。
私が勝手に石巻に嫁がなければこんな事にはならなかったと、きっと思っていたはずです。
それでも両親は、私達の無事を喜ぶだけではなく、夫の無事に涙し、居場所が分からず行方不明になっている私達を探しに70カ所以上の避難所を歩き回ったという話を聞くと、ありがとう…ありがとう…と言って、しばらく夫の手を離そうとしませんでした。
長く長く、7年もの時間が掛かってしまったけれど、今日が結婚記念日であることを両親に話す事が出来たのは、私達夫婦、そして家族の絆に強い自信を実感できた後だったからかもしれません。
お父さん、お母さん。私は夫に守られ、素敵な家族に恵まれ、本当に幸せです!ありがとう!!
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