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親子で防災・減災
子育てメモ


被災後の体調

2011年4月2日

被災当日の日没後は、2階ギリギリまで泥水が浸水し津波も何回も繰り返し起きていたと思います。

自衛隊さんに助けてもらい、近くの会館に避難するまでは、四六時中流れる瓦礫の音と余震の強さに注意しながら子供達と子部屋に閉じこもっていました。

津波襲来の夜、子供達は何も口にせず入眠し、もう3~4カ月以上前に卒乳していた息子は、夜な夜な私の乳房に手を入れてきました。おっぱいをくわえようとする仕草も見られました。急に2畳弱のスペースに閉じ込められ、強い余震が続く中の“赤ちゃん返り”だったのでしょう。もしかすると、私が表に出さないようぐっとこらえていた不安と恐怖が伝わっていたのかもしれません。

2日目の朝 子供達の唇がカサカサになっていることに気付き、何としても水分補給をさせなければならないと思いました。 (排泄は通常通りの量がありました) そこで…階段の泥水が引いてきた頃を見図り、1階に降りて 倒れて泥水に浸かる冷蔵庫の扉をこじ開け、未開封のスポーツ飲料と牛乳を取り出しました。あわせて3リットルの量。それを少しずつわけて飲ませました。

コップがないのでペットボトルの蓋で飲ませたところ、娘が近くに落ちていた折り紙で、紙コップを折ってくれました。意外と丈夫で驚きました。大人(私と義母)も頭痛の症状が現れていたため、少しずつ時間をあけて摂取しました。 水分補給さえしていればなんとかこの子たちの命を繋げることができる!と自分に言い聞かせ、子供達にもきちんと説明しました。

「ちょっとずつ、またすぐあげるから、これを飲んだら、またあとでね」

子供達は「しょうがないなー」といいながらも、駄々もこねず3日間耐え抜いてくれました。
4~5日目は近所の会館に脱出できていたので、水分補給は若干ですが充実させることができました(ご近所さんが一生懸命、崩れた家から口にできるものを運んでくれていたのです)。ここで排便も通常通りに戻りました。

※会館のトイレでは、辺りから汲んで来た泥水で小便を流し、大便はビニール袋や紙袋に包んで、ごみ箱に捨てていました(当時避難していた方々と決めたルールです)。

5日目以降は、指定避難所になっている中学校で十分量の食事をすることができました。友人たちがお菓子やお握りを差し入れに来てくれたこともあり、空腹に悩まされることはありませんでした。 お菓子については、普段より多く食べていたかもしれません。私は虫歯の危険があると察し、歯磨き道具はありませんでしたが、ティッシュに少量の水をふくませ子供達の歯を毎晩丁寧に拭いてあげました(意外と子供達に好評でした!)。

指定避難所を離れ、親戚宅に映ってからは、普段通りの食生活を取り戻しました。
ところが、震災から20日以上経ったある日、息子が嘔吐し、全く食べ物を口にしなくなってしまいました。すぐに小児科を受診させ、ノロウイルス感染症ということがわかりました。 「おそらく石巻の避難所から貰ってきたのでしょう」との診断でしたが、一般的な潜伏期間は1~2日ですから「少し遅い発症?」という見解でした。震災後の非常な環境下、あの小さな体のなかでもいろいろな混乱が生じ、生命力、免疫力も持ち分以上にフル稼働していたのかもしれません。


母子手帳再交付

2011年4月9日

流失してしまった物を全て取り戻したいだなんて、思ったことも考えたこともないのですが、子供達が成長していくために必要なもの、例えば母子手帳は、今すぐにでも取り戻したいと思っていました。

石巻市役所に電話で問い合わせてみたところ、即再発行してくれた上に滞在先の実家に郵送をして貰えました。

石巻市役所の皆さま、本当にありがとうございます。こうして1つ1つ身の周りに安心を得ることができます。これまで予防接種の記録も 別紙にプリントアウトされ、同封されていました。

石巻市で行った健診の記録も新たに記入されていました。手書きの記録はもちろんありませんが大満足です!
新規に接種しなければならない予防接種についてもちゃんと確認することができました。

震災後は、子供達の成長にまでなかなか目が行き届かずにいました。
この機会にもう一度、母子手帳を読み返して、子供達の健康や成長を見守る感覚を取り戻していきたいと思います。


布おむつ・紙おむつ

2011年5月7日

生まれたその日から、被災するまでの1年11か月間、息子のおむつには、9割方【布おむつ】を使用していました。
私の体調が思わしくない日や長時移動を伴う外出時には、紙おむつを使用していましたが、その他は全て、昔ながらの“さらし布”のおむつです。

(←携帯電話に保存されていた写真です♪)

1歳を過ぎてからは、おむつを外してタイミングを見ながらおまるやトイレに連れていったり、おむつをつけないで遊ばせる時間も取り入れていました。

娘は3歳の誕生日にやっとトイレットトレーニングを始めましたので、約2年も早くスタートさせたことになります。失敗する回数の方が 断然多かったのですが、たまに成功して「出たぁ~♪」と大喜びの時もありました。1歳半を過ぎてからは、排尿に結びつかなくても 「ちぃでる」と言えるようになっていました。

震災をきっかけに、息子のおむつは“完全・紙おむつ”になりました。震災直後、娘が4年前に使用していた3枚の紙おむつを偶然発見したのです。その紙おむつで5日目まで過ごしました(幸い、おむつかぶれの症状はありませんでした)。布おむつを使用していた経験から、排尿間隔や量を概ね把握していましたので、紙おむつをつけっぱなしにしていても、普段と体調(排尿量)に変化はないだろうか、常に確認することもできました。

5日目に指定避難所に移ってからは、1日1枚、足りなければもう1枚追加してもらいました。清浄綿を1日1枚貰えたので更に安心でした。 せっかく身に着いていた感覚を忘れさせてしまうかもしれないと思い、古着やタオルを代用して、紙おむつの使用は避けたかったのですが、布おむつカバーの代用として必要だった“ビニール袋”が1枚もありませんでした(当時、ビニール袋は泥水のなかを歩くときに履いたりするのに、大変貴重な物でした)。

その後の避難生活でも、布おむつを洗濯する水・道具・場所も限られていましたので、そのまま紙おむつを使い続けることにしました。息子も排泄のサインを見せなくなってしまいました。 ところが、震災から2ヵ月が経った頃(2歳1か月)、だいぶ元の通りサインを示してくれるようになりました。月齢も進んだこともあり、成功率もぐんと上がりました。

【追記】
仮設住宅に入居後は、洗濯物を干す場所が狭く、しばらくはパンツ型の紙おむつを併用しました。パンツ型のおむつは丈夫で伸び縮みが効き、息子がパンツの脱ぎ方を練習するのに役立ちました。 2歳2ヶ月を過ぎ、日中~夜間共におむつの必要がなくなりました。遊びに夢中になっていると我慢しきれず漏らしてしまうことがありましたので、生理用ナプキンを使用することもありました。2歳半を過ぎると、それも必要がなくなりました。紙おむつを「いたい~」と脱ぎ捨ててしまうことがあります。


親戚宅での生活

2011年7月17日

親戚宅(:独身の義兄宅)では、居候にも関わらず食事や入浴、テレビゲームやPC閲覧に至るまで、ほぼ被災前と同じようにさせてもらっています。私達家族の部屋を用意してもらっていますので、物を増やすことはできませんが、中学校の体育館で寝ていたことを考えれば、これ以上の避難生活はないのでは?と思う程です。

6月中旬頃、中古車を手に入れてからは、自由に外出もできるようになりました。
外出を好きな時間にできるようになり、自分なりに家事をこなすようになったことで、“被災者・避難者”という感覚が次第に弱くなっていったようにも思います。

居候先を自由に出入りできない生活の頃は、精神的にとても辛かったことを覚えています。
親戚宅がある自治体で行っている子育て支援事業に通ってみましたが、やはり遊び慣れたお友達の輪の中に早く戻してあげたいなと思っています。

子育て支援事業内で、やっと年の近い子供と出会えても、2回以上続けて遊ぶチャンスはなかったし、大人なも子供も「明日仮設住宅が当たるかもしれない」と思えば、地に足の着いた交流は難しいものです(それでも出会った皆様にはとても良く接して頂き子供達も喜んでおり素敵な思い出ができました)。

私自身も、石巻の復興に何も携われないでいる事をもどかしく感じておりました。
主人の健康も心配です。娘をお友達との輪に戻してあげたいです。 居候先でも家族一緒に居ることができますが、何か、何処か違うのです。生活再建に向けてのスタートラインに立てた感じをまだ得て居ないような感覚さえあります。


亡くなったお友達のこと、どうやって伝えた?

2011年7月20日

大切な人の死について、私が親として、子供達に伝えるのは今回が初めての経験となりました。 その初めてが、義父でした。

娘は生後2ヶ月から義両親宅に預けられていたので、伝える私も、とても辛く勇気のいることでした。 義父の死については、遺体が見つかった後すぐに伝えました。

「じっちは、死んじゃって、どこに行っちゃうの?」と聞き返した娘。あの強い表情、忘れられません。
「じっちはね、もう死んでしまってね、もうみんなと会えないんだよ」 …包み隠さず話しているうちに、私が悲しくなり涙が止まらなくなりました。 その様子を見て、娘も泣き出しました。そして私の肩を抱きしめてくれました。

人の死が“悲しく辛い出来事”であることを娘は、私の涙を見て初めて、感じてくれたのかもしれません。

義父の死を伝えた後、娘が辛く悲しい表情を見せることはありませんでした。ただ、夜床に就くと必ず「じっちはなかなか夢に出てこないよ」と悲しげに訴えました。「夢の中ならじっちに会える」と話していたので、娘はそれをずっと信じていたのです。ところが、火葬を終えると、不思議とすんなり寝付くようになりました。

近所のお友達、幼稚園や英会話教室のクラスメイト、私が知った死については、全て話しをしました。出来る範囲ででしたが、子供達と一緒に葬儀にも参列しました。

「ママはずっと長く生きてね、天国に行かないでね」

子供達と手を繋ぎ、遺影の前で最後のお別れをしながら、娘に言われました。

余談ですが… 震災から4ヶ月が過ぎ、被災地ではハエが異常発生しております。 常に数匹のハエに付き纏われます。 どうしても退治できないハエを子供達はとても嫌がるのですが、 「それ、じっちかもよ?!」と話すと「そうか!じっちがハエの体を借りて飛んできたんだ!」と言い、大して嫌がる事もなくなりました。「わたし達のこと見に来たんだよねぇ」と面白おかしく話すのですよ。

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