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私たちの3.11

家族再会までの5日間

津波が襲って来た時間。
…1回の窓からお隣の親子さんが車に乗って避難して行ったのが15時5分頃。それから間もなくの出来事でした。 私は今まで聞いたこともない、ゴーッと響く重低音に気付きました。まるで古くて重たいサッシを開けるような、飛行機が低空飛行をするような、そんな音を感じていたように記憶しています。 何この音?と、耳をすます間もなく、地をはう這う津波の先端と真っ直ぐに逃げ走る人の姿か見えました。

津波の先端が去ると、庭に駐めてあった二台の車がいとも簡単に浮き上がり、流されていきました。その間わずか3秒程度の出来事だったと思います。 私は、声を荒立て、地震後すぐ駆けつけてくれた義母(70歳)と子供達(娘6歳、息子1歳11ヶ月)の4人で、自宅二階に避難しました。そして3畳の納戸に、義母と子供達を閉じ込めました。

「絶対に外を見ちゃダメ!ドアも開けないで!ここにいて!」と言い残した後と、私は階段をじわじわと上がってくる真っ黒い泥波を見つめていました。 泥波は階段最上段ギリギリに迫ってきました。私は海側に見える家の方を見ながら、「あの家の屋根を超えたら、そうだ、2段ベットを船にして浮かぼう、お母さんんはハシゴにくくりつけよう!」と、次の避難方法を考えていました。

ドクン、ドクン…自分の心臓の音がハッキリと聞こえました。それでも恐怖や不安を感じることはありませんでした。とにかく義母と子供達で絶対に生き抜くという気持ちが揺らぐ事はありませんでしたし、最悪の事態を予測することは一切ありませんでした。 幸い、二階が浸水せずに済み、そこから3日、水が引くのを待ちました。

一階はまるで洗濯機にかけられたような状態でしたが、なんとか冷蔵庫から飲み物を取り出し、それで水分補給をしました。ペットボトルのジュースと未開封だった牛乳を少しずつ少しずつ分けて飲みました。コップがなかったので、ペットボトルの蓋や小さな紙切れれで娘が折ってくれた紙コップを使って、少しずつ、少しずつ分けて飲みました。


トイレはダンボールに。オムツは、たまたま押入れから見つけた5枚の紙オムツつを一日一枚ずつ使ってしのぎましした 3日目、自衛隊の方の声がけと支援で近所の会館に避難しました。食糧備蓄や配給はなく、同じく避難していた近所の方(高校生の兄弟さん)が、泥瓦礫を半日かけて歩き拾い集めてきた食べ物、飲み物で、なんとか2日間を過ごしました。

5日目。私は、自衛隊も消防も誰も入ってこない事への不安、空腹も限界となり、自力で会館を脱出することを決意しました。膝の高さまで泥水がありましたが、5日目になると、多くの人が家族の安否や自宅の状態たいを見に歩っていました。息子を抱っこ。娘をおんぶ、義母の手引き、荷物を持って…全てをいっきにはできませんでした。

とにかく声を張り上げ、周囲に私の意思表示をしつつ、助けを求め、前に進みました。そして、やっとの思いで自衛隊が集まる場所まで辿り着き大きな指定避難所(公立中学校)に移動しました。 そこで、主人と再会いすることができました!主人も職場店舗が骨組だけとなり、そこから2日かけて、私達を捜しに歩いていたのです。私は周囲を気にせず、走って、思い切り抱きつました。

その後、義両親宅を見回りに行き、義父の遺体を見つけました。義父は…自宅で逃げ遅れ、水死していました。1階の茶の間で、浮き上がったであろう畳に挟まれ、指だけが見えていたと、主人は教えてくれました。

義母には、私から伝えました。避難所の片隅みに座る義母の耳元で「じっちはね。茶の間でダメだったって、パパがね、ちゃんと見つけて、自衛隊さんに伝えたって…」 「なんで…じっちやぁ…なんで…じっちだら…」 私は、義母をしっかりと抱き寄せ、「大丈夫。私がいるから、お母さん、私に任せて、 大丈夫だから」 涙をぐっとこらえて、私は自分にも言い聞かせるように、何度も何度も、義母に大丈夫と伝えました。 子供達には、まだ伝えられずにいました。どう伝えたらよいのか全くわからずにいたのです。


子供達の様子

1階の窓から地を這う泥波を見た後、3つ数える間もなく庭の車2台が浮き上がり、家の前を曲がり出て行きました。私達はその後すぐ2階にあがりました。そして3畳程の納戸に義母と子供達を閉じ込めました。 私は「絶対に出ちゃダメ!ここにちゃんと座ってて!!」と声を荒立てドアを閉めました。 子供達は何も言わず、泣きもせず、言う事を聞いてくれました。義母が子供達を抱き寄せていました。

その間、私は何回か納戸のドアを開けて「大丈夫、ここにちゃんと座っていれば大丈夫、ママはすぐ傍にいるから」と声をかけていました。その時の子供達は、義母にしがみつき、娘は静かに私の顔をみて「うん」と答えていました。息子も何やら不安そうな表情で私を見ていました。

2階に避難したのが午後3時半前後。5時半位には日が落ちて真っ暗になってしまいました。その頃、水位があまり変化しなくなった事に気付き、私も納戸に戻りました。幸いにも浸水は2階の床10センチ弱手前で止まりました。 納戸に戻ると、子供達は全く変わらない体勢でこちらを見ていました。

「大丈夫だよ、ここに居れば大丈夫、暗いからもう寝ようか」といって2階の押入れに入っていた毛布をかぶせると、すぐに眠りに就きました。 1日目の深夜、娘が1度だけ目を覚ましました。何か言いたそうな表情だったのですが、「大丈夫、眠ってしまえば朝はすぐだから、ママとここで寝ようね」と話すと、再びすーっと眠ってくれました。

朝になると、子供達は部屋の外に出たがりました。トイレに行きたい、お腹が空いたといってはドアを開けようとしました。私はトイレに行かせるのを忘れていた事に気付き、納戸を出て段ボール箱に古雑誌や洋服を重ね、そこに用を足すよう子供達を連れて行きました。階段の方は絶対に見せませんでした。

娘は納戸にある小さな窓を開けようとしましたが、それもさせませんでした。 地震の前日から、偶然にも娘の絵本と絵描き道具の1部を納戸に運び、絵描きスペースを作ろうとしていたので、子供達は納戸に戻り、いつものように遊びはじめてくれました。私が外の様子を見に行くたびに、「何見てるの?どうなってるの??」と訊ねてきましたが、「大丈夫だよ、ママがいつ1階に行けるか、外に行けるか見てくるから」というと、避難直後のような深刻な表情は見せず、普段の「はぁーい、わかったよ(仕方ないなぁ)」という素振りを見せてくれました。

納戸に戻ると、娘は「外はどうなってるの?」と訊ねてきました。私は「外は海から来た水で、いっぱいになってるの」と、直接窓の外を見せずに状況を説明しました。また同時に、水が引くには時間がかかること、今出たら危険だから待つことが大事であること、ここにいれば水に濡れることはないということを何度も言い聞かせていました。「大きな地震が来てお家が揺れると、海もいっぱい揺れて、お水も溢れだしちゃうんだよ」等という話にも、耳を傾けてくれました。

その日の夜、はじめて娘は涙声で「パパに会いたい」と訴えてきました。私は「パパも同じだよ、すぐには会社を出られないからね、もう少し水がなくなったら、ちゃんと帰ってくるからね」と話しました。「なんでー!」と叫ばれましたが、「いまもし、パパが家に向かってきたら、体も泥だらけになるし、木や家も流れてるからすごく危ないんだよ」と多少は具体的に、状況を説明しました。娘はとても落ち着いており、それ以上、愚図ることはありませんでした。

息子は、特に泣きわめいたりすることなく過ごしていました。私と娘との会話をじっと見つめていました。 3日目に近所の会館に避難する事を伝え、そこで初めて、窓の外の景色を見せました。娘は、「うわ…真っ黒だ…」「私、嫌だよ!怖いよ!!」と一時騒ぎましたが、「あそこに行くといっぱい人がいるよ、ママはあそこに行く、みんなでいれば元気になるから、ママは行くよ!」と話すと「じゃぁ行くよ…」と不安げな表情を残していました。

泥水に足を奪われそうになりつつ前に進む私の背中に乗っていた娘は、「ママ大丈夫…?」と泣き出しそうになっていました。ジャンバーの前身ごろの中にすっぽり収まった息子も今にも泣き出しそうでした。 それでもどうにか、外に出て私が「誰か!」と叫ぶと、ずっと向こう側から自衛隊さんの制服姿が見え手を振りました。すると子供達も「わぁ!」といって手を振り笑顔を見せてくれました。「ママ!わたしたち、助けてもらえるんだね!!」と、ようやくいつもの笑顔を見せてくれました。


食生活(指定避難所に移るまでの5日間)

1日目の夜は、何も口にすることができませんでした。
2日目の午前中、階段の下残り3段位まで水がありましたが、家財道具の山を乗り越えて行くことで冷蔵庫までたどり着くことができました。幸いにも、冷蔵庫は扉を上にして倒れていたので扉を開けることができました(とても重かったです)。

冷蔵庫の中から未開封のペットボトル(清涼飲料水)を1本、牛乳1リットルを1本、ヨーグルトを2つ、チョコレート菓子を少々取り出しました。また密閉容器に入れていた頭痛薬を取り出しました。 頭痛薬は私と義母が服用しました。1回2錠のところを1錠ずつ飲みました。1日目の深夜、義母が頭痛を訴えて、夜明け頃、私も同じく頭痛を感じていましたが、内服して休むとすぐに楽になりました。

2日目の午前中から3日目の脱出まで、合計3リットルの飲み物を子供達、義母と私で、少しずつ分けて飲みました。コップがなかったのですが、娘が「折り紙で折れるよ!」というので、絵本の厚紙で作って飲ませました。ヨーグルトも紙で作ったスプーンで食べさせました。少し口にいれるともっともっと欲しがりましたが、「ちょっとずつ!」と言い聞かせました。どうしても愚図った時には、ペットボトルの蓋を裏返してコップにして飲ませました。何回も注いで何回も口にして、量は少ないのに満足していました。

息子は1歳9ヶ月頃に卒乳していました(被災時1歳11ヶ月)。離乳食はもともと、教科書通りには行ってはいませんでした。生後6ヶ月頃から重湯を食べさせ、果物の味や火を通した野菜の食感を経験させていましたが、全て大人の分を食卓で取り分けたりすり潰したりして食べさせていました。フォローアップミルクも飲ませていませんでした。牛乳が大好きでした。

最初の避難所には、非常食もなく、自衛隊の支援物資も届きませんでした。近所の方達(主に10代)が腰まで水に浸かりながらも、2時間以上かけてコンビニや卸問屋、自宅の冷蔵庫や倉庫からお菓子やジュースを運んできてくれました(何度も往復し、その度下着までびしょ濡れになっていました)。それを当時60人以上いた避難者で分けあって食べていました。

大好きなお菓子やジュースばかりでしたので、子供たちは大喜びでした。子供たちが元気になると、周りの大人達は、これも食べなさい、これもあげるよと、ひっきりなしにお菓子を手渡してくれました。 そこで不安になったのが、“歯磨き”でした。もちろん十分な水も道具もありませんでしたが、これだけのお菓子を1日中口にしていたら、虫歯だけじゃない、寝ている間に肺炎の原因を作ってしまうかもしれないと思ったのでした。そこで、私は頂いたウエットティッシュで朝晩、子供たちの歯を拭いてあげることにしました(2人とも、今のところ虫歯はできていないとのことですので、ほっとしています)。

その避難所に、最初の食糧支援があったのは4日目の夜でした。牛丼と白飯のレトルトパウチが温められた状態で届きました。子供達も一緒に同じものを食べました。その初回の食料支援の際、「もうここには食料は届きません、他の場所に避難してください」と言われました。翌日、私は「とにかくここに出よう」と決意しました。 大きな避難所への移動 5日目に泥瓦礫を乗り越え、自衛隊の支援車にたどり着き、最寄りの市立中学校避難所に送って頂きました。そこでは、新鮮な野菜や果物を食べることができました。

また、炊き出しも始まっており、温かい手作りお味噌汁を飲むことができました。菓子パンや惣菜の配給もあり、少量1日2回でしたが、大人も子供も(我家の場合)、程良くお腹を満たすことができました。 この2つめの避難所からは、食事も充実しはじめましたが、皿やお椀は毎回、使い捨ての物を再利用しなければならず、不衛生にならないか心配でした。手洗いも勿論できませんので、ウエットティッシュ1枚を丁寧に使って拭きとっていました。子供たちの爪先が砂色になっており、医務室で爪切りをさせました。

乳幼児用の離乳食については、その頃、私が居た避難所では、配給に至っていなかったと思います。これについても、避難所によって差があったと聞いています。公共施設、会社等々、避難所に指定されていない場所でも多くの人が避難していました。備蓄食料にも差があったと思います。大きなスーパーが近くにある避難所では比較的早く手に入ったという話も聞きました。粉ミルクについても同様です。お腹を空かせた赤ちゃんのために、見ず知らずの大人が自宅へ砂糖と哺乳瓶の替りになるものを取りに行ったという話も聞きました。


避難所はすぐ慣れた?

最初に入った避難所は、2階建ての小さな会館で、1階は水没していました。
2階部分の小ホールと約10畳の和室に80名程の方が避難していました。

私が義母と一緒に会館に入るとすぐに「大丈夫だった?怪我はないの?」「ほら、食べてないでしょ、これ飲んで!」「着替えとタオル必要だね!ほらこれ使って!」「まず、ここにすわらいん(座って休んで)」等々、次々と声を掛けられました。自宅を脱出して本当に良かったと感じ、ほっとしました。 勿論、生まれて初めての経験でしたが、私自身は、その環境にすぐ慣れていたと思います。

自衛隊の方と先に到着していた子供達は、私と義母が到着すると既に、私の知らない間に見ず知らずの大人の膝上に座っていました。そしてニコニコ笑ってお菓子を頬張っていました。大人たちが動き出すと、わずかのスペースの中を楽しそうに走りまわっていました。幼い子供は他に居ませんでしたので、姉弟で一緒になって遊んでいました。

夕方5時半位になると暗くなり、皆が床に就く準備をしましたが、私はその時間までずっと、誰かと話をしていました。声を掛けたり、声を掛けられたりです。何もすることがないのに、暇を持て余すことはありませんでした。 強い余震が来ると、子供達は私の側に駆け寄って来て離れませんでした。その度、周囲の方に「もう大丈夫だよ」と優しい声を掛けてもらい、すぐに笑顔と元気を取り戻していました。子供達は私以外の大人の言う事を本当によく聞いていました。

5日目、会館から市立中学校の避難所に移りました。 数百人が避難している大きな避難所でも子供達は変わらず元気に振舞ってくれました。 その後、仮設住宅に入居するまでの約4か月間、親戚宅を転々としながら避難生活を送りました。

娘は、「会館に戻るの?」「ずっと中学校に居るの?」と、明日自分は何処にいるのか常に不安がっていました。ここに居れば温かいご飯が食べられるし、家の周りも会館の周りも危険であることを話すと、その時は何とか納得してくれた様子でした。

自宅から会館、中学校、親戚宅、私の実家、義兄宅への移動を経て、娘からこの問いかけがなくなったのは、震災から3ヶ月後位の事です。私自身も同じ不安が強くありましたので、上手く娘の気持ちを受け止めてあげることが出来なかったのかもしれません。 楽しみがいっぱい待ってるよね! 「ママ!!仮設住宅が当たったら 6回目のお引越しだね!新しいお家から幼稚園にも行けるね!」 明日のことを楽しみに待ってくれるようになったのは、震災から3カ月以上過ぎてからのことでした。

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