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忘れられない出来事
2011年8月~11月の記録


“なれこい”

2011年8月9日

仮設住宅での生活が始まり、あっという間に3週間が経ちました。
声を掛け合うご近所さんも日に日に増え、今夜は同じ棟のお子さんと花火をして遊びました。

我が子達は、何処に行っても誰と出会っても人見知りをしないようです。出会う人に、大きな声で挨拶を交わしたなと思えば、次々と嬉しかった出来事を話し出します。 無邪気な様子に手を焼く事ばかりなのですが、そんな我が子の“なれこい”が私の密かな自慢です。

この“なれこい”という言葉が、宮城(仙台)弁であることを私は最近初めて知りました。簡単に訳すと「ひとなつこい」「なれなれしい」という意味です。 度が過ぎれば相手に誤解を招くことになりますし、犯罪に巻き込まれる等の不安もあります。子供の行動をある程度予測しながら適度に観察していなければなりません。

それでも今回の震災後、避難所など不慣れな場所での生活を強いられた際には、この“なれこさ”に随分と助けられたものです。もし常に私の傍から離れられず、避難所の片隅でじっとしている子達だったら、私自身の負担も大きかったと思います。 もちろん周囲の方の優しさと寛大さあっての事ですが、「またお菓子もらっちゃった!」と満面の笑で戻ってくる姿に、 私は避難生活中、幾度となく心癒されていました。

仮設住宅に移ってからも本領を発揮している様子です。声をかけられたらすぐに挨拶をするようになり、私はとても心強く感じています。姉の姿を見ているのか、まだ2歳の弟まで真似して挨拶ができるようになってきました。

…私事、結婚して石巻に移り住む前までは、人と交わるのが大の苦手でした。目新しい環境ではもちろんのこと、慣れた環境でも相手の評価を気にするばかりで、何もかも自分の中に閉じ抱えがちでした。 社会集団では自分の考えを押し殺す事で 何とか周囲との足並みを揃えて安心を得てきました。

ところが、子供を授かり親となってからは、そんな事ばかりしていると、やがては子供に迷惑が掛かる事に気付きました。 人と交わらなければ、必ずストレスが溜まります。その矛先は子供達に向けられていたのです。 少しずつ意識をして他人と交わるようにしていましたが、「相手の事を知りたいのなら まず自分の事を話す(示す)」というルールを知ってからは自分でも信じられない程、コミュニケーションが楽しいと思うようになりました。

震災後は、自分自身で道を切り開いていく場面に幾度となく遭遇しましたが、たとえ初対面でも周囲の方々と声を掛け合い、時には不安を打ち明けることで、前に進んでいくことができました。 苦手を克服しておいて本当に良かった!と今更ながらに感じています。


未来に残したい、娘の言葉。

2011年8月15日

久し振りに、家族揃ってドライブに出掛けてきました。
高台にあるベンチで娘と一緒に空を眺め、娘とお喋りをしていた時のことです。

「ここでお絵かききしたいなー」という娘に、私もこう訊ねてみました。 「こっちゃん,今日のお空はどんな色で、どんなふうに描くの?」 すると、娘はこんな事を話してくれました。

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雲は綿あめだよ
天国に行ったじっちやお友達が食べられるように
神様が作ってくれたんだよ

虹は遊園地
天国にも遊園地があるんだよ!!
きっとみんな遊んでるね

青い空は海だよ
天国でもいっぱい泳げるように神様が作ったんだ

山はね
天国から時々こっちに帰ってきたくなった時にね
空から降りてくる場所なんだよ
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私は、娘の言葉を一生忘れないと思います。 話を聞いた後、じーっと空を眺めてたら、思わず涙が溢れてきてしまいました。

こんなに素敵な目を持っているだなんて、娘がもっともっと大人になったら、きっと忘れてしまうのでしょうね。えーそんなこと言ってたの、信じられないだなんて笑われてしまうのでしょうね。お嫁に行く時がいいかしら?そうだ、娘が親になる時でもいいかもしれない。本当にこんなことを言っていたのだよと、話してあげたいと思います。


台風一過

2011年9月23日

台風一過。
私が住む仮設住宅団地は幸いにも床下浸水程度の被害でしたが、たった2日間でも災害に対する緊張感が続くと、平常心を取り戻すのに 相当エネルギーを必要とすることがわかりました。すぐには普段の日課をいつも通りにこなす事ができませんでした。 1つづつ、また1つづつ。ゆっくり取り戻していくしかないですね。

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「ママ!津波が来る!水があんなに…音も…恐いよ!」

台風最接近の夜、窓の外の景色を見てしまった娘は、私の傍に駆け寄り泣き叫びました。
もうこれ以上、子供達に怖い思いをさせたくない。そう思った私は、まだ避難勧告も出ていないのに、必要最低限の避難準備を整えました(左の写真は、雨が降りだして1時間も経たないうちに撮影したものです)。

その後すぐ、石巻市からの防災mailが届きました。冠水による新たな避難勧告でした。その中には、私が住んでいる地区ではなかったのですが、すぐそばに旧北上川が走っていることもあり、もし自分の住んでいる地域は避難勧告となった時に既に道路が冠水していて、避難できず孤立してしまったらいけないと思いました。

私はその時点で“自主避難”を決意しました。 被害を避けることはもちろん、恐怖に怯えない安心な場所に移ることにしたのです。私1人で避難してはいけないと思い、お隣に1人で住む叔母さん、その隣に1人で住むお婆さんにも声をかけました。すると、5分も絶たないうちに荷物の準備を済ませ私達のもとにやってきました。

その後すぐに、避難所になっている小学校の体育館まで車に乗って避難したのですが、道路のマンホールが浮いておりかなり危険な状態でした。暗闇で冠水した道路は街頭の光が反射し、それに風が吹き付けると、まるで白波が立っているような勢いを感じました。直進するだけでも恐怖を感じ、とにかくハンドルを握りしめていました。

無事、避難所に到着。私達は半年ぶりに体育館に敷かれたダンボール紙の上で1夜を過ごしました。子供達は安心した様子で 体育館内を散策しておりました。夜9時半を過ぎ子供達は眠りに就きました。息子は隣の叔母さんに抱っこされ寝ていました。雨音はどんどん強くなっていくのに、怖がらずに眠ってくれたので、私も安心して休むことができました。

翌朝外をみると、すっかり晴れ渡っており水も引いていました。私達もほっと一安心。「何もなくて良かったね」と、笑顔で仮設住宅に戻ることができました。

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自主避難はしたものの、心配していた被害には及びませんでした。それでも早めに避難をしてよかったと思っています。子供達の不安を最小限に抑える事ができたし、お隣の叔母さん お婆さんも「1人で不安な夜を過ごさずに済んだ」と話して下さいました。

私も、主人が帰宅するまで、大人1人で子供達を守るには不安がありましたし、すぐ目の前を走る旧北上川が氾濫したらどこにどう逃げたらいいのか分からない恐怖がありました。

今思えば、お隣さんに声をかけたのは決してお隣さん達が“一人暮らしだから”だけではなく、自分自身の不安を軽減するためでもあったように思います。
川が氾濫する、山が崩れるだなんて、仙台出身の私には想像もつかないことだったのです。お隣の叔母さんは、ずっと石巻に住んできた方なので、私がわからないことを何でも教えてくれました。地元の方の土地勘や古くからの教えは大切ですね。

これからもお互いが助け合っていけるよう、「おはようございます」「いってきます」「おかえりなさい」などの何気ない関わりを大切に、“もしも”の時に備えていきたいなと思います。


瓦礫への想い

2011年11月22日

義母の仮設住宅への引っ越しが始まり、津波の犠牲となった義父もやっと新居に落ち着くことになりました。
「これ、じっちのおうち~?」といって中を覗く子供達です。

そして この日はもう1つ、とっても嬉しい事がありました。いまだ解体も修理もせず残っている義両親の自宅1階から、私がずっとずっと探していた物が見つかったのです!!!

それは、なんと!

私達夫婦の婚礼写真でした。私は既に、「瓦礫の中からは もう何も見つからない」と諦めきっていましたし、思わぬ再会に、嬉しくて嬉しくて涙がいっぱい溢れてきました。泥に浸かって開かなくなった何冊ものアルバムの間に、このアルバムだけが綺麗に残っていたのだそうです。

天国で大工仕事中の義父から届いたメッセージかもしれませんね!! 思い出が沢山詰まった生家を壊すにも直すにも、1つ1つ丁寧に作業しなくてはならないと、改めて思いました。

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