5回目の11日は、家族水入らずで過ごしました。義父の写真に手を合わせた後、家族で記念写真を撮りました。
幸せを満喫する傍、自宅界隈では未だ遺体の捜索が続けられています。
その現実を目の当たりにし、家も家族も失わなかった自分が、こんなところで子供達と一緒になって笑っていてもよいのだろうか、将来の生活を楽しみにしてよいのだろうかと、強い罪悪感に襲われます。
後ろを振り返ることで生活再建への気持ちが揺らぐのなら、振り返らない方が良い。 震災があったことなんて全くおかまいなしに日々成長をしていく子供達を前に、私達はひたすら前に進み続けなくてはならないのだから。
それでも、後ろを振り返ることはとても大切なこと。震災を知らない、未来の子供達のために、私達の経験を言葉にして残し、伝え続けなければならないのだから。 前を向き続けること、後ろを振り返り未来に活かすこと。
前を向き続けること、後ろを振り返り未来に活かすこと。
5回目の11日、この2つは私にとってどちらも欠かすことはできない、そんな責任感のようなものを感じていました。
そこで私は、震災直後から続けていたこの記録をもっと多くの方に読んでもらいたい、もっと多くの親子さんと、体験を共有したいとう思いから、“震災を乗り越える親子の記録を共有し、残し続ける活動”をライフワークとしていこうと考えました。…その名も「三陸こざかなネット」。“こざかな”は、私がハンドルネームとして使っていた名前です。「小さくても、栄養たっぷり!」という意味がこめられています。
大震災の爪痕や被害の状況、無惨な光景。これも勿論、大切な記録ですが、それだけではなく、震災後の暮らしについて関心を寄せていこうと思っています。 三陸こざかなネットを、未来の防災や減災、その他いろいろなことを感じ考える糸口として役立てて貰いたいと考えています。
東日本大震災を乗り越える親子の記録 三陸こざかなネット
ホームページはこちらです
URL:http://www.kozakana3.justhpbs.jp/
義父の作業場解体・撤去が終わり、すっかり何もなくなってしまいました。
重機を使っての作業の後、義父が残した写真アルバムが新たに見つかりました。表紙を破り、そっと頁を開くと、中は全て、義父が撮影した娘の写真でした。
春は桜の木の下
夏は庭で花火
秋はドライブ
冬は雪だるま
…孫と一緒に過ごした四季と、笑顔で溢れていました。
何もなくなった作業場からアルバムを見つけた後、
平成19年の初春、私達の家を立てる際に義父が書いた建築許可証が見つかりました。
「津波なんて来なければよかったんだ!!」
義父の場所で、私は声を上げて泣き叫びました。
私達よりもっと辛い思いをしている人が沢山いるのだからと、あれから半年間ずっと 自分に言い聞かせていました。悔しくて悔しくてたまらない、悲しくて悲しくて涙が止まらない、辛くて辛くて前が向けない、そんな気持ちは贅沢!私達は頑張って当然、私達は泣く程辛くはない。…そんな気持ちで毎日を過ごしてきました。
もちろんこれからも同じ気持ちです。過去は振り返らない、ひたすら前を向いて行こうと思います。 でも時々は、また今日のように、義父の場所に行ってみたいと思います。そして泣きたい時は思い切り、泣き叫んできたいと思います。
明日で半年が経つのですね。
震災から7ヶ月。
子供達の記憶は、大人達をあっと驚かせる形でよみがえって来ます。
「ママ! しろ(:愛猫の名前)はね つなみがきたとき カーテンにのぼって ながいつめで ひっかかっていたから つなみでながされなかったのかもしれないよ!!!」
…愛猫が何故、津波に流されずに済んだのか?
「だってあのとき しろはにげおくれたでしょ でも あしがすこししかよごれてなかったでしょ」 夜中にこんなことを寝惚け眼で話してくることもあります。 「あたしね つなみのあと はじめてみえたのが じっちの きいろいカゴだったの」
“きいろいカゴ”とは、義父が“薪”を入れていたカゴのことで、娘は生まれた時からずっと同じ場所でそのカゴを見ていました。津波の直後は、窓から外の景色を見る事は決して許しませんでしたので、他の記憶と想像が入り交じってしまったのかもしれません。
被災時1歳11ヶ月だった息子は、義父の自宅前で車を停め降りると、未だに「じっちー!じっちー?」といって義父の作業場目指して走り出します。義父の自宅・作業場の瓦礫撤去が終わり、庭に足を踏み入れる事ができるようになってからも変わらない仕草で義父を探しています。
「じっちはね お空から見ているから ここにはいないの!またねしようね」 一緒にバイバイをして、すんなり帰るようになったのはつい最近のことです。
子供達が大人になった時、この記憶がどんな形でどれ位残っているのか全く見当がつきません。それでも私達大人は、命の尊さや、辛く苦しい日々を乗り越える度に得てきた事を家族の記憶と共に残してあげたいと考えています。 どんな記憶をどれだけ残してあげられるかは、親次第なのかもしれません。
震災以降、石巻市外の義姉宅に居候生活を続けていた義母が、石巻に帰ってくることになりました!河北町の仮設住宅団地で、空き家となっていた部屋に入居します。
震災以来、これから何処でどう暮らすのか?全く意思表示ができず、息子・娘たちの言う通りに過ごした義母でしたが、義父の葬儀やお墓の手続き等々、義母でしかできない役割が増えてくるなかで、「私も石巻の仮設に入って暮らしたい…」と話してくれるようになりました。
仮設住宅入居申し込みは締め切られていましたが、私達夫婦は、いつか再募集が開始されるだろうと思い、お盆明け頃から何度も市役所に通い相談をしていました。そして街に待った2次募集開始のお話を仮設住宅担当者さんから聞くことができたのです!!
早速、義母に入居が決まったと連絡すると「また迷惑かけちゃうね」と言いながらも、「やっと石巻に帰れる!」と喜んでおりました。
あれから8か月。義母の気持ちがはっきりせず、周りだけがイライラしてしまう事も多々ありました。兄弟同士の意見が食い違い、言い争う事も何度かありました。時間はかかりましたが、最後はちゃんと義母自身の気持ちに落ち着きました。
1人1人違った被災をし、境遇も心境も復旧のスピードもみんな違うことを改めて感じました。
上の写真は、11月14日に、石巻市役所2階窓口にて撮影したものです。
未だ行方不明となっている家族を探すための相談窓口た設置されています。
窓口に訪れる人の数だけ、違った境遇、心境があるのですね。
お義母さんの仮設住宅で、9回目の11日を迎えました。
お義母さんも、だいぶ仮設住宅の生活に慣れてきた様子です。 テレビ台の向きが少しだけ斜めになり、棚上に備忘録とペンが置かれ、台所には洗い流した後のお皿や鍋が重なっていました。
私達が到着した時、お義母さんは押入れの片づけをしていました。 「年末に誰が泊りにきてもいいようにね 布団にカバーをかけて縫い付けていたの」 お義母さんは、元祖・関白亭主に世話を焼く事はなくなりましたが、4人の子供達の母親として、しっかり役割を果たそうとしていました。
お昼ご飯は、お義母特製“かけうどん”でした。お義父さんが毎朝食べていた大好物を子供達も一緒に美味しく頂きました。 おとうさん みてたかな~?!
三陸こざかなネットでは、“震災記録漫画”を作成中です!皆様からの投稿お待ちしております!
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